南房総市の山城をナビゲート - 一般社団法人 南房総市観光協会

南房総市の山城をナビゲート

山城ガールむつみさんと一緒に南房総の山城へ。
いざ、歴史ロマンの旅!

こんにちは!歴史&山城ナビゲーターの山城ガールむつみです。
今回は南房総市の「白浜城」「宮本城」「滝田城」の3つの山城をナビゲートします!一緒に山城を攻めている気分になって楽しみましょう!
いざ、出陣!!
山城ガールむつみ

山城ガールむつみ

歴史講師、歴史&山城ナビゲーター。
山城、歴史イベントや講座を多数開催。数多くの御城印デザインも手がけ、地域活性の起爆剤として「山城」めぐりの楽しさを伝えている。
SNSは「山城ガールむつみ」で検索。
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南房総市の山城!

南房総市は海と山に囲まれた自然豊かな美しい場所です。「食」も豊富で、一年中おいしい食べ物が満載! そんな魅力的な南房総市は歴史も深く、多くの歴史遺構が存在します。
戦国時代になると、里見氏や正木氏などの有力な戦国大名や国衆が領地を守るために、天然の要害である丘陵や山を利用して城を築きました。敵の侵入を防ぐため、城には山麓から山頂にかけて様々な仕掛けが施されました。そのようにして築かれた城を「山城」といいます。
500年ほど前に、自らの領民、経済、文化などを守るために築かれた山城。南房総市にはたくさんの山城が今でも残っていて、私たちを歴史ロマンの旅に誘っていざなってくれます。

安房国を代表する大名である里見氏は戦国時代、下野国(群馬県)から鎌倉公方の命を受けて安房国にやってきました。そして、一族のお家騒動などを経て、房総半島で強大な勢力に成長し、戦国大名となりました。
関東の戦国史を彩る活躍と、その後の里見家を襲う悲劇などから着想を得た名作「南総里見八犬伝」が創られ、人々の感動を誘い今に語り継がれています。

「山城」を歩くと、創作上の物語とはまた違う戦国大名としての里見氏の姿が浮かび上がり、歴史ロマンを感じずにはいられません。
それでは南房総市の山城に出陣してみましょう!

里見氏が房総半島にやってきた!

里見氏はじまりの城『白浜城』

白浜城は房総半島の最南端に位置し、海上交通を押さえる要衝地に当たります。標高140mほどの山頂からの眺めは絶景で、眼下に野島埼灯台、その先に太平洋を望めます。

小田原北条氏と江戸湾を挟んで戦いを繰り広げるまでに勢力を拡大する里見氏が、安房に入って最初に本拠としたのがここ白浜の地なのです。
15世紀頃、太平洋海運の要衝地だった白浜は事実上、関東管領上杉氏の領地でした。享徳の乱(1454年)をきっかけに、鎌倉公方足利成氏が関東管領勢力から重要地である白浜を奪還すべく、里見義実を安房に送り込んだと思われます。

もともと里見氏は、源氏の名門新田氏の一族です。新田氏から分かれ、上野国(現在の群馬県)里見を領地にもらい、「里見」を名乗りました。
今でも群馬県高崎市には里見城という里見氏ゆかりのお城が残っていますよ。
安房里見氏の初代義実は白浜に入り、城を築き、安房国進出の第一歩としました。まさに安房里見氏はじまりの城がここ白浜城なのです!
山城ガールむつみ

では白浜城に登城開始です!

白浜城登城口

白浜城登城口
青木観音堂の横から登っていきます。入り口には杖も置いてあります。
大雨で道が崩れている箇所もありますが、気持ちのいい山道です。スニーカーかトレッキングシューズで城攻めしましょう。

戦前からこの登山道は存在したようです

現在のこの登山道がお城があった当時の道と同じかどうかは分かりませんが、戦前からこの登山道は存在したようです。

息を切らせてどんどん登っていきましょう

当時のお城の道はどこだったのかな?
そんなことを考えてタイムスリップ気分を楽しみながら、息を切らせてどんどん登っていきましょう。

この岩を切り開いた道はいつの時代のものなのでしょうか

白浜城の城山は、第二次世界大戦の時に軍用地として使われていたため、改変を受けている可能性もあります。この岩を切り開いた道はいつの時代のものなのでしょうか?

足元を見ると、たくさんの貝が

ふと足元を見ると、たくさんの貝が。
中世には今の地形より、海岸線がもっと山に迫っていたと思われます。
もっと遡って縄文時代にはこの山には波が打ち寄せていたのでしょう。その名残りと思われるサザエが何個も転がっています。このことからも白浜城が海と密接な水運の要衝だったことが偲ばれます。
大雨で斜面が崩れた際に流れ出てきたのでしょう。

ちょうど眼下に広がるあたりに屋敷が並んでいたのでしょう

ひとやすみして、振り返るとすでに結構な高さが!
城山直下の山麓部分には「庭台」と呼ばれる段丘面が残っていて、家臣屋敷があったといわれていますが、ちょうど眼下に広がるあたりに屋敷が並んでいたのでしょうか。

登山道から少し奥を見てみると、不自然な平場が点在します

登山道から少し奥を見てみると、不自然な平場が点在します。
後世の畑の跡か、はたまた城が存在した時代の腰曲輪か?それとも、当時の城道か?
写真矢印の箇所が削平されて平場になっています。

ここの曲輪は何に使っていたんだろう

やはり人工的に土を削って加工された曲輪があちこちに目につきます。
写真矢印の箇所が削って整えられて平場になっています。
削平されて平らにされた空間を「曲輪(くるわ)」といいます。
建物を建てたり、兵を置いたり、いろいろな用途に使われた平らなスペースのことです。
ここの曲輪は何に使っていたんだろう?そんな風に考えながら歩くとますます楽しくなりますね。

登ってる途中も常に怪しい痕跡がないかを探しながら進みましょう

登ってる途中も常に怪しい痕跡がないかを探しながら進みましょう!
キョロキョロと神経を研ぎ澄ませながら進みます。
ただし、足もとには気を付けてくださいね!

途中にある平場。きれいに削平されています

途中にある平場。きれいに削平されています。
ここから登ってくる人を見張っていたのでしょうか?だとすると、この真下が城の道ということになりますね。想像が膨らみます。

まもなく山頂のエリアに到達です

まもなく山頂のエリアに到達です。
このような岩盤の切通しが出迎えてくれます。

この切通しはいつのものでしょうか

この切通しはいつのものでしょうか?
考えるとワクワクしますね。

岩盤の切通しを登り切ると、このように開けた場所に出ます

岩盤の切通しを登り切ると、このように開けた場所に出ます。
自然地形を利用しながら、右手(東側)のエリアと左手(西側)のエリアを分断するような造りになっています。
ここから右手(東側)エリアにも曲輪や、その曲輪にめぐらされた土塁、さらにはやぐら台のような土の高まりが見受けられます。
櫓台とは、物見や防衛のための建物(櫓)が建てられていた土台のこと。ここには、城に入ってくる敵を見張ったり、攻撃したりする櫓があったと思われます。
下からの道に対しての見張りとして機能していたのではないでしょうか。

埋もれてしまっていますが井戸も確認できます

東側エリアに行くと、埋もれてしまっていますが井戸も確認できます。

矢印の土の塊が「土塁」です

矢印の土の塊が「土塁」です。土を盛って築いた土塁は、敵を防いだり、風よけにしたり、柵や塀の土台にしていたと思われます。

物見台と思われる土の塊が残っています

物見台と思われる土の塊が残っています。その下の地面は平らにならされ、曲輪として何らかの用途に使われていたと思われます。

ひな壇状に造られた曲輪や、大小様々な曲輪が点在しています

では、次は西側のエリアに進んでみましょう。 歩いていくと、東西に伸びる尾根を通路にし、それに沿うようにひな壇状に造られた曲輪や、大小様々な曲輪が点在しています。

櫓台と思われる遺構が残っています

そして、直下の湊を押さえる城らしく、南側の海に向けて櫓台と思われる遺構が残っています。
この高まりが櫓台と思われ、上には物見の櫓が建っていたのでしょうか?行ってみましょう!

小さいながらも綺麗な平場になっています

上がってみると、小さいながらも綺麗な平場になっています。ここから、大海原を見渡し見張っていたのでしょうか?
船で海から戻ってくる仲間に合図を送ったのかもしれませんね。

ここからは見事な景色が広がります

ここからは見事な景色が広がります。
海に漕ぎ出し房総の湊を行き来した里見水軍の船が目に浮かぶようです。
写真右手に見えるのが、野島埼灯台です。今も灯台があり海上の重要地である白浜は、中世から重要な湊だったと思われ、白浜城がランドマークになっていたのでしょう。
ちなみに、野島埼灯台のある「野島」はかつては島だったと考えられています。

里見氏はやがて、安房を支配するのにふさわしい城として稲村城を築いて移りますが、その後もしばらくの間、白浜城と稲村城は城と城の連携が図れるように連絡道で繋がれていました。
隠居した里見義通が白浜に入り、義豊を支えたと考えられています。
今でも稲村城には白浜城へと続くとされる道が城内に通っていて、18kmの距離で行き来できます!
16世紀前半頃、「白浜」と呼ばれる人物が文書に登場しますので、その頃まで白浜城が使われていたのかもしれませんね。
山城ガールむつみ
根原神社前の畑地に「館前」という地名が残ります

青根原神社前の畑地に「館前」という地名が残ります。
麓に屋敷が置かれ、山上は有事の際の詰めの城だったのでしょうか。
白浜城は多数の不整形な曲輪が点在していて、特に堀切などの防衛遺構は見られません。時代的には、里見氏が安房に入ってきたころの当時の様相を残すお城といえるかもしれません。

安房里見氏はじまりの城、「白浜城」!ぜひ足をお運びください!

別名「大津城」!

勢力拡大の足がかり『宮本城』

宮本城は標高約180mの「城山」と呼ばれる丘陵に築かれました。
南房総市富浦町大津にあり、別名「大津城」とも呼ばれています。
その名の通り、「津・湊」を押さえる城であり、山全体を要害化し、房総半島でも有数の山城となっています。
多々良海岸に注ぐ岡本川の中流域に位置し、鏡ヶ浦(館山湾)を望む要衝地です。
安房に入った里見氏が白浜城から稲村城に本拠地を移した際、ここ宮本城も支城として整備されたと考えられています。

天文2年(1533年)、里見氏のお家騒動「天文の内訌」が起きました。
稲村城にいた里見家当主義豊が叔父の実堯を殺害したことにより、里見家中が分裂し、義豊VS義堯(実堯の子)という図式で戦うことになったのです!
そのときに、義豊方の城として戦ったのがここ宮本城なのです!
山城ガールむつみ

では、さっそく宮本城に出陣してみましょう!

宮本城登城口標識

宮本城登城口標識
城山西側のこの登城口から登ります。
左手の標識を目印に進んで行きましょう。

雛壇状の畑があります

進んで行くと、高台になったところにこのような雛壇状の畑があります。もしかしたら、家臣の屋敷がこのあたりにあったのかもしれませんね。

苔むしているので滑りやすいです。気をつけて歩きましょう

どんどん進むと少し広い道になります。
苔むしているので滑りやすいです。気をつけて歩きましょう。
車も通れますが、狭いのでご注意を!

登城路にこのような標柱が立ってます

しばらく歩くと、登城路にこのような標柱が立ってますので、さらに奥へ進みましょう。

主郭へ向かう途中の城道

主郭へ向かう途中の城道。

城道に対して攻撃をできるように足場を作っているのが見て取れます

上を見上げると、城道に対して攻撃をできるように足場を作っているのが見て取れます。色んなところから攻撃されそうな威圧感を感じます!

油断せず、キョロキョロしながら進みます

油断せず、キョロキョロしながら進みます。

天文の内訌で義豊方の城として使われ敗れた後は、替わって里見氏当主になった義堯が宮本城に入ったと思われています。

里見義堯はお家騒動である天分の内訌のあと、「大津」から手紙を出しているので、宮本城にいたことは間違いないと考えられています!
ここに里見義堯がいたんですね!感動!
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宮本城は東方2kmの距離にある滝田城と連携し、本拠の城として機能していたと思われ、東尾根は滝田城へと続きます。
宮本城からは鏡ヶ浦や対北条氏のために築かれた岡本城(南房総市)も見えます。

さらに天文14年(1545年)頃から小田原北条氏と江戸湾(東京湾)を挟んでたびたび戦いが繰り広げられるようになり、金谷城(富津市)が北条方の手に落ちると、宮本城は北条氏に対する城として整備されたと思われます。

城の中を歩いていると、土を掘り、土を盛った痕跡から当時の緊迫感が伝わってくるようです!
いろいろと想像しながら歩きましょう!
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堀切や竪堀などの仕掛けが施されています

尾根を通ってやってくる敵に対し、尾根には堀切ほりきり竪堀たてぼりなどの仕掛けが施されています。堀切は尾根を掘って断ち切って分断するもので、竪堀は斜面に縦に堀を掘ることにより、斜面の移動を防いだりするものです。
主郭周辺には腰曲輪こしぐるわや階段状の曲輪が造られています。

城内にはさまざまな当時の痕跡があります

城内にはさまざまな当時の痕跡があります。
目をこらして、探してみましょう。

天文の内訌の戦いの舞台にもなり、小田原北条氏と海を挟んで戦った里見家当主義堯が、在城した宮本城。
ぜひ、訪れて歴史を感じてください。近くには道の駅「おおつの里」もあるので一緒にお立ち寄りください!

里見氏の虚と実の歴史を楽しもう!

里見氏の家臣・一色氏の城『滝田城』

滝田城は標高150mほどの丘陵上に築かれました。展望台からの眺めもよく、山の裾野を通る平群街道を見下ろすことができます。
安房と上総を結ぶ平群街道は古来の幹線道路です。その中間地点にある滝田城は、西方2kmにある宮本城と山陵伝いに繋がっていて、二つの城は連携して安房国中心地への入り口を防衛する役目をしていたと考えられます。
滝田城は、里見氏のお家騒動である「天文の内訌」のときに里見義豊方の一色氏の城でした。一族ながらも敵方となった里見義堯の軍勢によって滝田城は攻められ落城しました。その後は争いに勝った義堯方の城となりました。
一色氏は足利一門の名家です。そのような一門が滝田城に入ったことで、この城の重要性や、城の格が垣間見えます。
そして、滝田城は南総里見八犬伝の舞台でもあります。時代を超えていまだ大人気の八犬伝の世界と合わせて楽しめる山城です。

滝田は「たきだ」と読みます。
滝田城は南総里見八犬伝の舞台となった城です。「伏姫」と「八房」が暮らしていたと物語の中で描かれている城です。
滝沢馬琴による南総里見八犬伝が時代を超えて愛され、誰もが知っている物語中の里見氏の「虚」の世界、戦国時代に房総半島で勢力を拡大し、戦国大名となり安房国の覇者となる里見氏の「実」の世界。
滝田城に出陣して、里見氏の「虚」と「実」の姿を探ってみましょう。
山城ガールむつみ

滝田城には駐車場が2カ所あります。
県道88号から西に分岐する道の先にトンネルがありますが、今回はその南側の登城口1駐車場から登って、トンネルの北側の登城口2駐車場に降りてくるコースをご案内いたします。

では、行ってみましょう~!

滝田城登城口1駐車場

滝田城登城口1駐車場
この看板の奥に駐車場とお手洗いがあります。
車を止めて登っていきましょう!

イノシシ対策の柵がありますので、開けたら閉めて進んでくださいね

イノシシ対策の柵がありますので、開けたら閉めて進んでくださいね。

台風で崩れてる箇所もありますが気をつけてズンズン歩きましょう

途中、台風で崩れてる箇所もありますが気をつけてズンズン歩きましょう。

登り初めて数分。もうすでに景色がよくなってきました

登り初めて数分。もうすでに景色がよくなってきました。
街道が眼下に。
ハイキング用に整備された道を歩きながら、ふと頭上を見ると気になる数mの高まりが。
ちょっと登ってみると…。

平場になってます

平場になってます。まだまだ滝田城の城域の外と思いきや、人工的に加工された形跡がところどころに残っています。
主郭へ向かうルートを見張るためでしょうか。

まるで土橋のような美しい道です

まるで土橋のような美しい道です。
自然地形の尾根ながらも、人工的に加工してるのでは?と感じる地形が続きます。途中、藪で不鮮明ながらも左右に堀切が入ってるような箇所もあり、ますます気分が高まってきます!

進んで行くと、展望台があります

進んで行くと、展望台があります。 ここには南総里見八犬伝をモチーフにした里見義実の娘「伏姫」と犬の「八房」の像が建てられています。
江戸時代に滝沢馬琴によって創り出された八犬伝の物語は、人形劇や映画にもなり人気を博しました。
犬の八房にさらわれた伏姫のお腹から飛び出した八つの玉。伏姫は死んでしまいますが、その飛んでいった玉を持つ八犬士たちが、繰り広げる創作歴史物語です。

滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」では、滝田城は里見義実の居城として描かれています

滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」では、滝田城は里見義実の居城として描かれています。
あまりの人気の高さ故に史実と物語が混同されがちですが、この滝田城では「虚」「実」両方の世界を楽しむことができます。

展望台から思いを馳せてみましょう。当時を想像できる美しい風景が広がります

展望台から思いを馳せてみましょう。当時を想像できる美しい風景が広がります。

この展望台も結構広い平場になってますが、城として使われていたときはなんだったんでしょうか。後世になって畑などにされたんでしょうか?
城に行くと当時の状況がわからないことがたくさんありますが、自分なりに考えて楽しむことが城めぐりの醍醐味ですね!
山城ガールむつみ
進んで行くと、かなりの高低差が出迎えてくれます

進んで行くと、かなりの高低差が出迎えてくれます!
人工的に攻めやすいように原地形を加工した痕跡が見て取れます。
階段を上っていきましょう。

ついに荒々しいお城の遺構が姿を現しました

ついに荒々しいお城の遺構が姿を現しました!
階段の途中にはコレ!堀切ほりきりです。
ガツンと尾根が掘りきられています。
「堀切」とは、尾根を掘りきって分断することで、尾根道の通行を遮断し、敵を防ぐ仕掛けです。

これは進めませんね。機能美にうっとり
これは進めませんね。機能美にうっとり♡
当時はもちろん手作業で掘っています。
土を掘ったり盛ったりして、敵の侵入に備える仕掛けを城の中にたくさん施します。その当時の人の痕跡や、そこに込められた想いを探して歩くのが山城の楽しさではないでしょうか。
山城ガールむつみ
堀切をちょっと引いて撮ってみました

堀切をちょっと引いて撮ってみました。
本当は写真の黄色ラインのように山の尾根が続いてました。
それを掘って、尾根を切った敵を防ぐための仕掛け「堀切」が500年近くほぼ当時のまま、残っています。

階段を上りきると、櫓台になっています

階段を上りきると、櫓台になっています。
ここには、城に入ってくる敵を見張ったり、攻撃したりする櫓があったと思われます。
ここから山伝いに西方向に行くと宮本城へと繋がっています。宮本城と連携しながら、滝田城は使われていたのでしょう。
位置としては、南に稲村城、西に宮本城というように里見氏の重要な城が配置されています。

櫓台を降りると主郭へ到着です

櫓台を降りると主郭へ到着です。ここから見ると、さきほどの櫓台が高い!主郭を守るためにここに櫓が建てられたのが納得できますね。

ここが主郭と思われています

平成8年の台風で倒れた木の下からまとまった陶磁器が見つかっているため、ここが主郭と思われています。
有事の際には、城山に逃げ込んで籠城するための施設があったのかもしれません。城主や家臣の屋敷は麓に建てられていたのでしょうか。

実際に滝田城は戦いをして、攻められ、落城しているお城です。戦いの緊張感の中、お城がどのように使われ、どういう思いで城を守ろうとしたのか…。そういうことも想像して思いを馳せてみるとまた違った感動があるかもしれませんね。
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「弐の郭」と書かれた案内板がカワイイです

では、次は二の曲輪へ進みます。
「弐の郭」と書かれた案内板がカワイイです。
ここからは台風の影響が色濃く残り、大木が倒れています。
気をつけて進みましょう。

大木をかき分けて進むと、二の曲輪東突端の下に曲輪を発見

大木をかき分けて進むと、二の曲輪東突端の下に曲輪を発見!
きれいに削平されています。下りてみましょう。

登城口2駐車場へ下りていってみましょう

下りてみるとこの曲輪の下には、主郭へ向かう登城路が見えるので、ここからその道を見張るには最適です。
では、その登城路から、登城口2駐車場へ下りていってみましょう。

虎口と書かれた案内板があります

しばらく行くと、「虎口こぐち」と書かれた案内板があります。
「こぐち」と読みます。虎口はお城の入り口のことです。攻めにくくするために道を狭く工夫したので「小口」とも書かれます。
こちらのルートの場合、ここを通ってさきほどの主郭へと向かったんですね。こちらが大手道だと思われます。

「馬場」と呼ばれている曲輪もあります

どんどん下りていくと、いくつかの曲輪や「馬場」と呼ばれている曲輪もあります。
写真は「寺屋敷」と呼ばれている曲輪です。ここには居館があったのでは?ともいわれています。
確かに、かなり広い空間ですし、周囲を土塁で囲んでいて、居館があった可能性も十分に考えられますね。

土塁が高い

土塁が高い!
写真で見ると、土塁と曲輪の広さが一目瞭然ですね。

滝田城登城口2駐車場

滝田城登城口2駐車場
登ったルートとは逆のルートで下りて、県道88号から分岐した道にあるトンネルの北側に出てきました。
ここにも駐車場スペースがあるので、ここから登る逆回りルートでもOKです。お好きな方から登城して楽しんでください。
ここからもう一つの駐車場までは歩いて10分くらいです。
車で来た場合は、車を忘れて帰らないでくださいね(笑)

里見氏は一族のお家騒動などを経て、房総半島で強大な勢力に成長し、戦国大名となりました。
相模国を小田原北条氏が平定すると、北条氏と里見氏は江戸湾を挟んで争いました。両者の熾烈な戦いからも、いかに江戸湾の制海権を手中に収めることが重要だったかが分かります。
その後、里見氏は領地を削られ安房一国に押し込められ、さらには伯耆国へ移封されるなどの憂き目に合います。そのようなお家の悲劇が元となり、南総里見八犬伝が創られ、今に語り継がれています。

滝田城は戦国大名里見氏の「実の世界」とフィクションである八犬伝の「虚の世界」、その両方が堪能できる歴史ロマン満載の素晴らしい山城です。
ぜひ、出陣してみてください!
山城ガールむつみ

写真・斉藤小弥太

南房総のお城を巡る
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