南房総のお城を巡る
南房総里見浪漫・御城印を巡る旅
御城印を巡る旅
Journey to correct the Gojoin
南総里見八犬伝の物語の舞台となった南房総ですが、同時に、中世の安房を治めていた史実としての「戦国大名・里見氏」のその歴戦の跡も色濃く残っています。1400年代の中頃に安房に現れ、慶長19年(1614)徳川幕府によって伯耆国(鳥取県)倉吉に移されるまで、170年近くにわたって安房地方の歴史をつくった里見氏一族。
その里見氏にまつわるお城に関しての御城印(ごじょういん)を手に入れ、それぞれのお城が持つ歴史浪漫に想いを巡らせてみませんか。
その里見氏にまつわるお城に関しての御城印(ごじょういん)を手に入れ、それぞれのお城が持つ歴史浪漫に想いを巡らせてみませんか。

白浜城
Shirahama Castle
白浜は、房総半島の南端に位置し、中世・太平洋の海上交通を抑える要衝でした。そのため、関東地方の戦国時代の幕開けとなる享徳の乱(1454年~1483年)において、鎌倉公方足利氏から当時関東管領の上杉氏派が統治していた安房地域を奪うために、送り込まれたのが里見氏といわれ、その初代の里見義実が、本拠にした場所が白浜城と考えられています。城跡は太平洋を一望に見渡せる標高140メートルの山頂を中心に占地し、東西1キロメートル、南北400メートルにわたる広大な城域を有し、物見台、堀切などのほか、尾根に小さな平場を作ることで曲輪を配した房総戦国時代初期の遺構が残る城郭です。
登山道が整備されており、山頂からの太平洋の眺望は秀逸です。山麓から山頂までは、約40分で往復することができます。
登山道が整備されており、山頂からの太平洋の眺望は秀逸です。山麓から山頂までは、約40分で往復することができます。
白浜城御城印
里見氏の家紋と太平洋を眺望するために物見台に建っていたであろう望楼を考証を踏まえ、イメージ化するとともに、望楼前に作られていたであろう木柵と太平洋からの海風にたなびく里見家の幟をデザインのモチーフといたしました。滝田城
Takida Castle
滝田城跡は南房総市上滝田区・下滝田区根小屋西方の丘陵上に占地する山城です。築城時期は定かではありませんが、天文の内訌(1533年)時、里見義豊派の一色氏の居城であり、里見義堯派に攻められ落城したという歴史を持ちます。この落城後は、しばらくの間、里見義堯が居城としていたのではないかともいわれています。城跡の最高所は標高140メートルであり、八幡台と呼ばれ、主郭部と考えられるとともに、これを囲む形で、曲輪と思われる数か所の平場が認められる構造となっています。城跡は南房総市の指定史跡とされており、曲輪、櫓台跡、竪堀などの遺構が良好に残ります。また山麓より遊歩道が整備され、所要約80分で城内を巡ることができます。
滝田城御城印
このお城は、「南総里見八犬伝」では、里見義実の居城とされ、八犬伝発祥の城とされています。この経緯により、城跡内の遊歩道には、物語に登場する伏姫と八房の像である「伏姫八房翔天の像」があり、その像のイメージをモチーフに里見氏の家紋と合わせ、デザイン化いたしました。宮本城
Miyamoto Castle
宮本城は、南房総市富浦町大津の標高188メートルの山上を中心に占地する中世戦国期の山城であり、城跡は南房総市の指定史跡となっています。宮本城は稲村城の支城として築かれた城といわれていますが、天文の内訌(1533年)の一方の主役であった里見義豊が幼少時育った城ともいわれています。
宮本城は、地形に対して竪堀、土橋、堀切等を組み合わせ、大規模な山城としての要害化が図られています。また、石積み遺構が残ることが大きな特徴です。このお城は、北側の防御に力が注がれており、上総方面を意識した山城であったと思われます。遺構の状況から見ても、戦国時代末期まで使用されていたものと考えられているとともに、一時期は、里見家当主である里見義堯の居城であった可能性もあるといわれています。
御城印においては、その山城全体の山容をモチーフとして、里見家の家紋と合わせデザイン化しました。
宮本城は、地形に対して竪堀、土橋、堀切等を組み合わせ、大規模な山城としての要害化が図られています。また、石積み遺構が残ることが大きな特徴です。このお城は、北側の防御に力が注がれており、上総方面を意識した山城であったと思われます。遺構の状況から見ても、戦国時代末期まで使用されていたものと考えられているとともに、一時期は、里見家当主である里見義堯の居城であった可能性もあるといわれています。
宮本城御城印
宮本城はその城域、要害化の状況から見ても、安房の国、有数の山城といえます。御城印においては、その山城全体の山容をモチーフとして、里見家の家紋と合わせデザイン化しました。
石堂城
Ishido Castle
石堂寺の背後に築かれた城郭。石堂寺自体も万が一のときに備えて城郭として人工的に加工されている痕跡が見て取れます。特に薬師堂が建つ平場と、その下にある池は物見台と堀の役目をしていた空間だと考えられます。(薬師堂は後世に今の場所に移築されたものです)
石堂寺と道路を挟んだ石堂原にも城が築かれていたと伝わり、寺を取り込むように城郭化されていたと推察できます。
奈良時代からの古刹石堂寺を取り込み築かれた石堂城の険峻な山容をイメージして、御城印に描きました。
石堂寺と道路を挟んだ石堂原にも城が築かれていたと伝わり、寺を取り込むように城郭化されていたと推察できます。
石堂寺は火災などで何度か消失しましたが、そのたびにこの地域を領地としていた丸氏らによって再建されました。
石堂寺に今も残る多宝塔(国指定重要文化財)は1545年に丸常綱を大旦那として、丸一族を中心に建立されました。
丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心だったんですね!
石堂寺に今も残る多宝塔(国指定重要文化財)は1545年に丸常綱を大旦那として、丸一族を中心に建立されました。
丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心だったんですね!

石堂城御城印
石堂寺の多宝塔は丸一族を中心に建立されました。丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心であり、その寺を取り込んだ石堂城を築いた際も丸氏が深く関わっていたと推察されます。御城印には丸氏の家紋をデザインし、戦国期に丸氏が属した里見氏の家紋もあわせてデザインしました。奈良時代からの古刹石堂寺を取り込み築かれた石堂城の険峻な山容をイメージして、御城印に描きました。
丸城
Maru Castle
丸氏の菩提寺安楽寺背後の丘陵上に築かれた城です。安楽寺の前を通る街道は丸城が機能していたときも存在していたと思われ、その街道を見張るように櫓台が残ります。自然地形を使い、主郭のスペースを確保し、城郭としたのでしょう。
今の丸城は戦国時代に使用されたと思われ、それ以前は麓の安楽寺の場所に屋敷が建てられていたとも想像できます。いずれにしても、平安時代からの豪族、丸氏の本拠地に丸氏ゆかりの貴重な城と寺が今に残っているのです。
御城印には丸氏の家紋と、戦国期に丸氏が属したと思われる里見氏の家紋をデザインし、安楽寺の山門をモチーフにしました。この山門は享徳元年(1452年)に建てられていたといわれ、享徳の乱(1454年)直前にあたるこの時期の丸氏の居城を想像できる現在に残る貴重な遺構です。この時期の丸城城主は、丸常重であることも安楽寺に残る鋳造護摩釜よりわかっています。山門にあわせて丸城城山の山容を描き、街道を見張る櫓をデザインしました。
今の丸城は戦国時代に使用されたと思われ、それ以前は麓の安楽寺の場所に屋敷が建てられていたとも想像できます。いずれにしても、平安時代からの豪族、丸氏の本拠地に丸氏ゆかりの貴重な城と寺が今に残っているのです。
丸氏は房総半島に土着した平氏の一族と思われ、「常」を通字としています。保元の乱では、源義朝軍に加わり戦いました。
吾妻鏡にも名前が登場する古代からの氏族です。
戦国期には安房東部の領主としてこの地域を治めていて、丸山川流域に一族が分布していました。
吾妻鏡にも名前が登場する古代からの氏族です。
戦国期には安房東部の領主としてこの地域を治めていて、丸山川流域に一族が分布していました。

丸城御城印
丸城が築かれた一帯を拠点とした丸氏は、保元の乱(1156)では義朝軍として戦い、鎌倉政権成立後には『吾妻鏡』にもその名が見えるほどの一族です。御城印には丸氏の家紋と、戦国期に丸氏が属したと思われる里見氏の家紋をデザインし、安楽寺の山門をモチーフにしました。この山門は享徳元年(1452年)に建てられていたといわれ、享徳の乱(1454年)直前にあたるこの時期の丸氏の居城を想像できる現在に残る貴重な遺構です。この時期の丸城城主は、丸常重であることも安楽寺に残る鋳造護摩釜よりわかっています。山門にあわせて丸城城山の山容を描き、街道を見張る櫓をデザインしました。
平松城
Hiramatsu Castle
古くからの安房の豪族安西氏の居城と伝わります。平松城は、太平洋航路の要である鏡ケ浦(現館山湾)に注ぐ河川沿いに築かれていて、安西氏がこの要衝を押える水軍を擁していたことがわかります。今に残る城は戦国期のもので、里見氏に属した安西氏が築いたのでしょう。
安西氏は対岸の三浦半島の豪族三浦一族とも関係が深かったとされていることから、三浦一族の家紋「三つ引両」をデザインしました。
三浦一族の和田義盛の子である朝比奈義秀の母は安西氏の娘でした。三浦義澄の娘は安西景益に嫁いでます!安西氏と三浦氏は密接な関係だったのです!ちなみに安西景益は石橋山合戦のあとに房総半島に逃げた頼朝の道案内をした人物です。

平松城御城印
平松城は、太平洋航路の交通の要である鏡ケ浦(現館山湾)に注ぐ河川沿いに築かれました。安西氏はこの海上交通の要衝を押える水軍の一団だったと考えられます。御城印は船で太平洋を行き来する安西氏をイメージし、表現しました。安西氏は対岸の三浦半島の豪族三浦一族とも関係が深かったとされていることから、三浦一族の家紋「三つ引両」をデザインしました。
里見番所
Satomi-Bansho
コンパクトながらも技巧的な城郭遺構が残ります。特に北西側に横堀を入れ、斜面を削り切岸にして、断崖絶壁に防御を固めています。下から見上げると垂直にそびえる斜面は到底登ることができません。北西方向に敵対勢力がいたことが考えられ、この地域の戦国史を考えるに重要な城と思われます。
文献には乏しいため、里見氏関連の城であることは想像できるものの詳細は不明ですが、当時のままの形状が残る貴重な城です。
文献には乏しいため、里見氏関連の城であることは想像できるものの詳細は不明ですが、当時のままの形状が残る貴重な城です。
里見番所御城印
御城印には里見氏の家紋「二つ引両」をデザインし、さらに里見番所の縄張図と復元鳥瞰図をモチーフにしました。歴史の詳細は不明ながらも、里見番所は造り込まれた遺構が残り、現地を訪れ、当時を想像して楽しむことができる図となっています。南総里見八犬伝御城印帳
Gojoincho
せっかく手に入れた御城印ですが、直接カバンにしまったりしてくしゃくしゃになることがあります。それを防ぐには、御城印帳に保管するのがオススメです。
そこで、南総里見八犬伝御城印帳も一緒にご購入するのはいかがでしょうか。
御城印は1枚300円(税込)、御城印帳は3,850円(税込)で、ご購入いただけます。
そこで、南総里見八犬伝御城印帳も一緒にご購入するのはいかがでしょうか。
御城印は1枚300円(税込)、御城印帳は3,850円(税込)で、ご購入いただけます。
デザインした山城ガールむつみ(歴史講師&山城ナビゲーター)さんより
表紙は海に乗り出し活躍した里見氏をイメージし、安宅船をデザインしました
裏面は南総里見八犬伝の世界観を表現するため、伏姫と八匹の犬、そして弾けて飛んでいく八つの球をデザインしました。
妖しくも面白い八犬伝の魅力が伝わりますように。
裏面は南総里見八犬伝の世界観を表現するため、伏姫と八匹の犬、そして弾けて飛んでいく八つの球をデザインしました。
妖しくも面白い八犬伝の魅力が伝わりますように。
御城印を手に入れるには
How to Buy
御城印とは登城記念にお求めいただくお土産ですので、実際に訪れて購入していただくのが本来ですが、通信販売を行なっています。
山城ガールむつみさんのページでご紹介いただいておりますので、そちらのページをぜひご覧ください。
お越しの際は、南房総市の道の駅でご購入ください。
山城ガールむつみさんのページでご紹介いただいておりますので、そちらのページをぜひご覧ください。
お越しの際は、南房総市の道の駅でご購入ください。

その他
富山ウォーキングセンター
「海が好き!」「山が好き!」「浪漫がある!」「温もりがある!」 南房総八犬伝の里 南房総・岩井に ぜひ!お越しください。 当センターは、JR岩井駅に隣接されています。 ハイキングでお越しの方は、地図など ...
- 住所 千葉県南房総市市部146-02
- TEL 0470-57-2088
- FAX 0470-57-3131
- E-mail tomiyama@awa.or.jp